アントワープから、パリへ
NGV、Sotheby’s、Luxe Digital は、マルジェラが、1979年に、アントワープ王立美術アカデミーを卒業したと書く。Wikipedia によれば、マルジェラは、「アントワープ・シックス」の一年前の卒業で、しばしばその一員と間違えられるが、正式なメンバーではない。

卒業後は、フリーランスで働き、その後、パリで、ジャン=ポール・ゴルチエのアシスタントを務めた。ゴルチエのもとを離れたのは、1987年である(NGV、Wikipedia、Flaunt)。ゴルチエは、マルジェラの最初のショーの客席にもいた(The Fashion Commentator)。
Wikipedia は、少年の頃に、アンドレ・クレージュやパコ・ラバンヌが出るテレビ番組を見て、ファッションに関心を持ち、10代で、蚤の市の古着を組み合わせて着ていたと書く。これは、Wikipedia のみの記述である。

顔を出さない流儀
メゾンの名前で語る
MoMu によれば、マルジェラは、早い時期から、服に語らせると決め、人前に出ることを断った。インタビューは、全てメゾンの名前で答え、デザイナーの写真は、配られなかった。Even は、連絡はファックスで行われ、返信は「私たち」の主語で書かれ、ショーの後のお辞儀もなかったと書く。
nss magazine によれば、2001年の Vogue の撮影では、アトリエの全員が集合写真に収まり、最前列の一席だけが、創業者のために、空けられていた。これは、同誌のみの記述である。
白い上っ張り
Even は、アトリエの人たちが、白い上っ張り(ブルーズ・ブランシュ)を着ていたと書く。店の内装は、無彩色に統一された。個人ではなく、集団として、ものを作る、という姿勢が、服の外にも、通っていた。
エルメスで
Wikipedia によれば、マルジェラは、1997年に、エルメスの、ウィメンズのクリエイティブ・ディレクターに就き、2003年まで務めた。Even は、この協働を、12シーズン続いたと書き、自分のブランドより、上質で、控えめな服だったとする。
引退と、その後
NGV によれば、マルジェラは、2008年に引退を決めた。Wikipedia によれば、正式に離れたのは、2009年12月である。NGV は、2018年に公に出した声明で、世界的に増す圧力と、商取引の要求に、もう対応できなくなったと、マルジェラが説明していると書く。
2018年には、パリの Palais Galliera で、1989年春夏から、2009年春夏までを辿る展覧会「Margiela/Galliera 1989-2009」が開かれた。Flaunt によれば、館のコンテンポラリー・コレクションの責任者は、マルジェラが、関心を示し、展覧会のアート・ディレクターを務めたと語っている。Even は、同じ年に、装飾美術館(MAD)で、エルメス時代を扱う展覧会も開かれたと書く。
資料で分かれる点
次の三つは、資料によって、書き方が違うため、この記事では、断定していない。
一つ目は、生まれた町。Wikipedia と Flaunt は、ジェンク(Genk)とし、Even と NGV は、ルーヴェン(Leuven)とする。二つ目は、ゴルチエのもとで働き始めた年。1982年(NGV)、1984年(Wikipedia、Even)、1985年(Flaunt、The Fashion Commentator)と、分かれる。三つ目は、卒業年。ほとんどの資料が1979年とする中で、Even は1980年とする。
見方
MoMu は、マルジェラの仕事を、古典的な仕立てと、概念的な思考の、まれな組み合わせと説明する。顔を出さない流儀は、その仕事の、一部だったと言える。


